「だから僕は側にいる」

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どうも、なってぃーです。
普段は「何者なのかよく分からない人」「何でもやる人」みたいな感じで、よくTwitterやInstagramなどのSNSに出没する人です。

世の中には本当に色んな人がいますが、特に自分の周りには「キャパオーバーの荷物を一人で抱え込んでる人」が非常に多いように思ってます。

まぁ自分も側から見ればそうなんでしょうけどね(笑)

自分は正直「人が嫌いで、信用なんか出来ない」という気持ちを心の奥底に持っています。

それについてはこの後お話ししますが、今では「人のためになることがしたい」と強く思えるようになりました。

今回は自分の生い立ち話を交えながら「どうして人のためになることがしたい」と強く思えるようになったのかをお話ししていきたいと思います。

マジでほとんど自分の生い立ちみたいな話になるんで、ここらで「自分語りなら別に興味ないわ」って人がいたら読まないで大丈夫です。

ただ、今現在「何かに悩み苦しんでる」「何となく生きづらいと感じている」人にはサラッとだけでも良いから読んでみてもらいたいと思ってます。

あなたがどうか「たった1ミリでも生きやすくなるキッカケ」が掴めますように。

 

「親の離婚・いじめ・家庭内暴力などを経て、児童養護施設へ」〜生い立ち編その1〜

自分は小学生の頃、静岡県静岡市に住んでいました。
家族は父親、母親、弟と自分の4人暮らし。

両親は共に女性をホテルなどの宴会会場に女性を派遣する「コンパニオン会社」を経営していました。

我が家が事務所になっていたので、宴会の予約が入った日の夜は大人数の女性が家に集まり、全員が揃い次第その会場に送迎されていくといった感じ。

両親の会社は結構人気があったみたいで、裕福とまではいかなくてもそこまで不自由する事なく過ごしていました。

ですが、そんな日々にも転機が訪れます。

一番の取引先だったホテルと何かトラブルがあったらしく、そこから仕事は激減。
その時期は従業員の女性達とも色々といざこざがあったようで、それまでの活気はだんだんと失われていきました。

そんな下降線を辿っていったある日の夜、母親と父親が夜中にも関わらず大声で喧嘩をしているのが聞こえ、寝ていた自分は目を覚ましてその会話を聞いていました。

どうやら母親が他の男と不倫をしていたのが、父親にバレたらしい。

やっと喧嘩が終わったかと思ったら、今度は「〇〇(母親の不倫相手の名前)にどんな風にやったのか俺にもやってみろ」と言いながら無理やり母親を犯していた。

それを見てしまった自分は今でもこの時の事を鮮明に覚えています。

そして次の日から母親はどこかへ出かけたまま帰って来なかった。

こうして両親は離婚したのでした。

両親の離婚は自分の学校生活にも影響を及ぼしました。

両親が揃っていないという事が分かると、同級生達は「コイツの家母ちゃんいない」みたいな事を理由に仲間外れにするといった「いじめ」に発展したんです。

「みんなと違うものは良くないもの」みたいな感じ?
しまいには「コイツの家貧乏だから風呂入ってない」みたいな事を言い出す奴もいたりとか。

これが小学1年から5年生のはじめまで続きました。
ずーっと毎日。

しかも両親の離婚が理由でバカにされたのは学校だけじゃなく、町が管理している体育館の受付の人からも「片親がいない」という理由でバカにしたような対応を受けたことがあります。

子供相手にそんな対応出来ちゃう人、ホントしょうもないから精子からやり直した方がいいと今なら面と向かって言えますが、当時はそんな事言えるわけもなく弟と一緒にトボトボ帰ったのを思い出します。

そんな毎日も突然終わりを迎えます。

いつものように学校から家に帰ると、父親と弟が二人でクルマに乗り込んで家の前で待っていました。

そのクルマの中には何故か家の荷物がパンパンに詰め込まれていました。

その時は意味も分からず乗り込みましたが、後から分かったのは「父親は借金で追われている身」だったらしく、それが原因で「夜逃げ」ならぬ「昼逃げ」を実行したということでした。

いや、昼逃げってなんやねん(笑)

その道中は男3人、色々な場所に立ち寄るのがとても楽しかった記憶があります。

父親はギャンブルが好きな人で、途中で「競馬場」や「ボートレース場」などの場所に寄りつつ、泊まる場所はその日によって「民宿」だったり、たまに「ラブホテル」に泊まるなんて事もありました。

そんな感じで、目的地である「北海道帯広市」に到着。

帯広では学校に通っても同級生からいじめられる事なく、むしろめちゃくちゃ楽しく学校に通っていて、家での生活も幸せな生活をちゃんと送れていました。

が、そんな生活が3ヶ月目に突入しようというところで突然父親から「お母さんがお前達を引き取りたいって言って聞かない。すぐに迎えに行くから一旦お母さんの所に行ってくれるかな?」というような内容の話をされました。

そしてその何日か後に母親が迎えにきて、北海道から愛知県へと出発しました。

北海道から愛知県に到着し家に入ると、知らない男の人が出迎えてくれました。

その人は母親の彼氏で、何ヶ月前から同棲を始めたとのこと。
最初はゲームをしたり色んな話をしてくれたりと「良いお兄さん」という印象でしたが、段々と自分達兄弟に暴力を振るうようになりました。

キッカケはちゃんと覚えてないんですけど、確か学校の宿題をやらずに寝ようとしたのが原因だったんじゃないかと思います。

こんなこと別に良くある話だと思いますし、そんな激怒するような内容でもない。

でもその人は違いました。
顔がパンパンに腫れるくらいまで、兄弟2人をボッコボコに殴りまくったんです。

しかもその場にいた母親は「あんた達が悪いんだからしょうがないんじゃない?」といったような顔をしながら、ただ見ているだけ。

これ以降、自分達が何もしてなくても、何か気に食わないことがあると暴力を振るわれるようになりました。

母親はというと、その彼氏がいない時は「あなた達はお母さんの宝物だからね」と毎度のように言っていました。

「それならば」とその彼氏に対する不満を言ったところ、その日の夜に寝ていた兄弟を叩き起こして朝までブン殴り続ける始末。

母親がその彼氏にチクったっていうことですね。
マジとんでもねぇ母親だ(笑)

そんなことがほぼ毎日だったので、とうとう気持ち的にも限界になり父親と連絡を取ってすぐに迎えに来てもらうことにしました。

そうすると父親はすぐに飛んできてくれたのですが、母親はやっぱり別れ際に「あなた達はお母さんの宝物だからね」という言葉を残しました。

もはや全然信用なんかしてないの分からないのかな?(笑)

この間大体3ヶ月くらい。
本当に殺されるんじゃないかと思った。

地獄の3ヶ月を過ごしたのち、父親と共に北海道の「釧路市」に向かったのでした。

愛知県から再び北海道に着いた3人はそこでまた新しい生活を送ることになりました。

ですがここに来てまた例の「コイツの家母ちゃんいない」っていう理由で自分にちょっかいを出してくる奴が現れました。

もう静岡の時点で終わったと思ってたらこれですよ。

そのちょっかいを出してくる奴はいわゆる「ガキ大将」みたいなタイプのやつで、そいつの言葉に反応してみんなで一斉に攻撃してくる。

って感じでした。

でも静岡の時と違ったのは、自分にも仲間ができたこと。
そして何より「そのガキ大将的なやつの家も母子家庭だった」という情報を手に入れてからは何も思わなくなりました。

何も思わなくなってからは自分が何も反応しなくなったので、面白くなくなったのか「普通に遊ぶ」ようになりました(笑)

マジでなんだったんでしょうね?

担任の先生から「〇〇(ガキ大将)は全部自分のことを言ってる」と、ただそれだけを聞かされていた時がありましたが、まさか本当にそうだったとは思いもしませんでした(笑)

それから無事小学校を卒業し、中学生になりました。

この頃からヤンチャなことを覚え始め、友達と一緒に耳にピアスを開けたりタバコを吸ってみたり…(笑)

時には雪の降る深夜に家を抜け出してエロ本を買いに行き、10円足りなくて泣く泣く帰ったりもしました(爆笑)

バンドでベースをやっていた友達から何故かドラムを教えてもらい、音楽をやり始めたのもちょうどこの頃からでした。

そんな感じの毎日を過ごしていたんですが、とある日珍しく父親と大喧嘩になり自分は家出してしまいました。

家出中は友達の家に泊めてもらったり、空き家のアパートの倉庫みたいな所(人一人なら余裕で入れる)に勝手に泊まったりしました。※よい子は絶対マネしないでね(笑)

そうしているうちに父親の友達から自分のPHS(当時父親が買ってくれた)に連絡が来ました。

お父さんの病気が悪化して、病院に搬送された」という内容。
連絡を受けてすぐに一旦家に戻り、病院に駆けつけました。

病室に到着すると、色んな管を身体中に付けられた父親の姿がありました。

こんなのすぐに治るから心配するな」と気丈に振舞ってはいましたが、正直声に力はなく、医師や看護師さんの表情もどこか暗い。

それでも父親の言葉を信じて何日も病室に通いましたが、良くなるどころか言葉も上手く話せない状態になってしまい、結局「こんなのすぐに治るから心配するな」という言葉がまともに父親と話した最後の言葉になりました。

病名は元々ずっと患っていた「C型肝炎」、入院中に発症した「脳梗塞」と「くも膜下出血」のトリプルパンチ。

喧嘩してくだらない意地を張って家出なんかしなければ、もっと色んなことを話せたはずなのに。
悔やんでも悔やみきれない「人生で初めての後悔」をした、今も忘れもしない平成11年1月4日の事でした。

訃報の連絡を受け、父親の親族達がすぐ我が家に駆けつけました。

そして葬儀の手配もすぐ済ませ、翌日には葬儀が執り行われましたが、親族達は父の死に悲しみの表情を何一つ見せることなく、淡々とやらなければいけないことをこなしているという感じでした。

これは後々知ったことですが、父は親族一同にもお金を借りていたらしく、今回その親族一同が一斉に我が家に押し寄せたのは「そのお金をどうにか回収するため」だけでした。

その証拠に、まず真っ先に自分達兄弟を「児童相談所」に預けたこと。
もう一つは決定的で、後からその親族から送られてきた我々の荷物の中から「金目のものが一切抜かれていたこと」。

その後も一切連絡などしてきた事はないのでまず間違いないんじゃないかと思っています。(唯一お墓だけは用意してくれたのは良かったと思っていますが)

そんな感じで遺されてしまった自分達兄弟は釧路市を離れ、北海道の道東に位置する「紋別郡生田原町(現遠軽町)」にある児童養護施設に入所しました。

児童養護施設に入所してからは、特に何事もなく毎日を過ごし高校卒業と同時に施設も卒業。

ここから今まで以上の苦しみや悲しみが試練のように押し寄せてくることも知らずに。

「母親との再会・夢を絶たれた出来事の数々・自殺未遂」〜生い立ち編その2〜

高校・施設卒業と共に自衛隊に就職した自分は、大変な仕事ではありましたが同期や先輩達に恵まれ、楽しい毎日を過ごしていました。

そして最初の任期が終わりを迎える頃、自分の中で新たに向かいたい方向性が見えてきました。

(※自衛隊って入ったら永久就職が決まるわけではなくて「陸士」という階級のうちは1任期2年(海上は3年)という決まりがあります。)

それは「児童養護施設の先生になること
中学一年生の終わり頃から入って、高校卒業までずっと面倒を見てくれた児童養護施設の先生に恩を感じていたのもありますし、何より人として憧れていた。

さらに「自分が施設の子供として入っていたから、他の先生よりは子供の事分かってあげられる」という自信がありました。

だからこそ、その後の行動も早かったと思います。
行きたい学校を決め、自衛隊側には任期は継続しないことを伝えて、名古屋の専門学校を受験しました。

なんで北海道から名古屋なのかというと、ただ単純に色んな費用が安かったから(笑)

ここまでは順調に進み、入学試験も無事合格。
ですが、ここにきてアテにしていた「奨学金制度」が使えないことが発覚。

手持ちのお金や自衛隊の退職金だけでは足りないのは分かっていたので、奨学金を使って学校に行こうというのは決めていたことですが、保証人になれる人が親族に誰もいないということがこの時に初めて分かりました。

もっと早くから確認しておかなかった自分も悪いんですが、この時初めて「自分の親族全員が金融的にブラックだった」ことが発覚したんです。

なんてこった(笑)

とりあえずどうしようもないので、その専門学校の入学は一旦諦めてお金を貯めてから入り直す作戦に出ました。

そしてその学校がある愛知県にたまたま母親が住んでいたので、現在の生活を様子見するためにも、北海道を離れて母親と一緒に住むことに決めたのでした。

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自衛隊を退職し愛知県で母親と一緒に住むことにした自分は、時給が高いパチンコ屋さんでアルバイトをしながら学校に行くための費用を貯めていきました。

月に約20万円前後稼ぎ、そのうち10万円を貯金に回す。
5〜6万円ほどを家に入れ、残りのお金を自分の使いたいように使っていました。

全然節約とかはしてなかったですけど結構順調に貯まってったんですよ。
だからその貯まっていく通帳を見てモチベーションを保っていました。

まぁ月10万円も貯金出来てれば、あっという間に貯まっていきますよね。
今それをやりたいと切実に思いますがなかなか出来ない(笑)

そんな月10万円貯金が「60万円」くらい貯まってきたある日のこと。
毎月のように貯金額を見てモチベーションを上げようと通帳を見ました。

残高0円

ん?見るページ間違った?と思い、もう一度確認。
だけどやっぱり残高は0円。

よく見ると、直前の取引で全額下ろされてたんです。

自分は何日か前に母親が言っていた事を思い出しました。
ちょっと静岡のおじいちゃんが体の調子悪そうだから、しばらく様子見てくるね

まさかと思い、試しに静岡のおじいちゃんに連絡を取ると「一度も来てない」とのこと。

直接電話をかけましたが、母親の携帯は料金未払いで止められてました。

全て察して本当にどうでも良くなりました。
お金を持っていかれた事より何より、実の母親にまたしても裏切られたことが本当にショックだった。

そしてさらに追い討ちをかけるかのような事実が発覚。
その家の大家さんが来て、もう3ヶ月家賃を滞納しているとのこと。

当然その息子である自分に支払いを要求してきますよね。
ですが、自分も今は全くそんなお金は無い。

自分が置かれている事情も全部お話しして、何とか「全部片付けて退去だけしてくれればそれでもういい」と言っていただけました。

その後部屋を片付け始めてたんですけど、押入れを片付けていたら一冊のノートが出てきました。

パラパラめくると、おそらく母親が書いていたのであろう日記のようなものでした。

その中にこんな一文が。

本当はあんな子供達欲しくなかった。本当はあなたと一緒になって、あなたとの子供を産みたかった

この「あんな子供達」っていうのは自分と弟のことでしょう。
そしてここに出てくる「あなた」っていうのは、今回の事件の発端となった男性のことでした。

(※これは残高0円事件の直後に知ったことですが、母親は他の男を作ってその人と住んでるらしいです。おそらくお金はその人と一緒に住むための費用として勝手に下ろしたんでしょうね。)

そんなノートを発見してその一文を見た瞬間そっと閉じましたよね。
本当何とも言えない気持ちでしたよ。

実の母親に「生まれてきたこと自体」を否定されてるんですからね。

他人のノートとLINEは見ても本当に良いことないですから、覚えといてくださいね(笑)

そんなこんなで母親と再開したことがキッカケとなり「自分の夢」と「お金」そして「人を信じようとする心」は一気に失われたのでした。

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「児童養護施設の先生になる」という夢は、一人の女の欲望によって絶たれてしまいました。

もうね、また一から始める気力も無かったわけですよ。
なのでこの頃は適当にバイトして、酒飲んでひたすら遊んでました。

人に迷惑をかけてたとかはないですけど、気持ち的にはかなり荒れてた時期だったんじゃないかなーと思ってます。

でも唯一心から楽しんでやっていたこともあったんですよ。

それが「音楽」です。
中一の頃にベーシストの友達からドラムを教えてもらって以来、ずっと音楽だけは続けてきました。

この頃からオリジナルの曲を作ってライブもやってましたね。
もう技術うんぬんじゃなく、表現できることの楽しさにただただハマってました。

音楽をやっている時間だけは余計なことを何も考えずに、自分が存在する意味を見出せたっていうところもかなり大きかったと思います。

途中、バンドが変わったりとかはありましたが、そうやってずっとやってきてCDも出しましたしツアーも周りました。
普段はメジャーアーティストがライブするような場所でやらせてもらったこともありました。

でも大体絶好のチャンスを頂いた時に限って、メンバーが抜けたりバンド自体が無くなったりして全然前に進めませんでした。

そんな中でも同年代や後輩のバンドはどんどん売れていくわけですよ。
名前は出しませんが、言えば知ってる人もいるんじゃないかな?

めざましテレビとかCMにも思いっきり出てたし(笑)

でもね、バンド自体が売れなくても自分自身は「自分が存在する意味」がそこに見出せればそれで良かったんです。

母親の一件以来「人はいなくなるもの、期待しても意味がない」と考えていたので、バンドで上手くいかなくてもそこまで落ち込まなかった。

今思えばずいぶんと冷めたやつだったのかも知れませんね(笑)

ALLHTESMALLTHINGS『sideless』LIVE

↑当時やってたバンドのライブ。

色んなバイトをしたり、バンドもやってたりしたので「人が集まる場所」にはよく出没してました。

そのおかげか、彼女が出来たり、会社の社長さんと知り合いになってその会社に入れてもらったりとかそんな出会いも結構多かったんじゃないかなと思います。

それ自体はすごくありがたい事なんですけど、やはりそこは一筋縄では行きません。

彼女が出来ても「他に好きな人が出来た」っていう理由で離れて行ったり、同棲中の彼女が居酒屋のバイトから帰って来なくなって、帰ってきた時についLINEを見たら「お客さんと浮気してた」とか。

何なら、彼女がおばあちゃんに彼氏(自分)がどんな人か説明した時に「そんな両親がいない人なんかサッサと別れなさい!どこの馬の骨かも分からない男なんか危なくてしょうがない」って言われたから別れるって言われたこともあります(笑)

絶対他の理由があったんだと思いますが、なかなかぶっ飛んでて面白いのでいまだにネタにしてます(笑)

仕事の面で言えば、出張買取専門のリサイクル会社の社長さんに気に入られ、最初はバイトで入ったところ「もうウチで専務としてやったら良いよ!」と言われ、マジでいきなりキャリアアップを果たした事もありました。

それによって通常の買取業務の他に、営業活動をしたり、人が足りない時なんかはバンドマンの友達をバイトとして雇ったり、元々パソコンが使えたのもあってネットショップの運営を任されたりしました。

ここでの仕事も本当に楽しかったんですよ。
本当色んな人と出会って、なかなか出来ないような仕事もやらせてもらったりもして。

バンドもやりながらだったし、常にバタバタ忙しい感じではありましたけどマジで充実してたんです。

ところがある日、そんな充実した毎日も突然終わりを迎えます。

自分やアルバイトで来てくれた人の給料未払いが、3ヶ月以上続いたんです。

でも仕事は動き続けているので、決して払えるお金が無いワケではありませんでした。

この頃から社長とは別行動で動くことが多くなったんですが、社長から連絡してきた時以外は一切連絡が取れず。

もはや嫌な予感しかしない中、ふと近所のパチンコ屋の駐車場を見ると社長のクルマがあるじゃないですか。

もう全部察しましたよね。
そういう事かと。

もう乗り込む気持ちにもなれず、一気にメンタルは直滑降。

今まで受けてきた、色んな人からの「裏切り行為」も一気にフラッシュバックしました。

そして同じタイミングで、その時付き合っていた彼女が同じバイト先の男と浮気をしていたことが発覚。

ここまで続けば「自分がこの世に存在している意味」なんか分からなくなります。

今から約12〜13年くらい前の12月。
心身ともに疲れ果てた自分は「この世からいなくなってしまおう」とついに行動に移したのでした。

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「ホッカイロのお姉さんと買取屋さんのお兄さん」〜生い立ち編その3〜

結局何をやっても死ぬことが出来ず、全く状況は変わりませんでした。

そこで「この全財産(確か6000円くらい)を全部使って、行けるところまで行こう」と近くの駅から出る始発列車に乗り込み、たどり着いたのは「東京 新宿

場所はどこでも良かったんですよね。
とりあえず知らない場所に行って、お金も尽きて食べる事も出来なくなればそのうち衰弱して死ねるだろうと思っての行動でした。

なんとなく新宿にたどり着き、フラフラと「歌舞伎町」あたりを歩いていると、キャッチのお兄さんや「お兄さんホテル代別で1万でどう?」みたいな人達が声をかけてくる。

結局世の中みんな金なんだよなー、嫌な世界だなー」なんて思いながら、歌舞伎町の交番の付近のちょっと座れる場所に腰を下ろしていました。

しばらくすると、同伴で今からお店に行くのであろう雰囲気の男女が遠くから歩いてきて、女性の方がなぜか自分の方に向かって歩いてきました。

そして自分が座っている場所の横に立ち止まってこう言いました。

今日寒いからこれあげる

その女性の手には、おそらくここに来る前に買ったのであろう新品の「ホッカイロ

当然、いきなり来て寒いからホッカイロあげるって言われても意味が分からないじゃないですか?

でもその人は「寒いから使って」って言いながら、また一緒に来た男の人と歩いて夜の街に消えていったんです。

ずっと「何だったんだ???」って思ってましたが、それ以上に「欲で支配されてるこの世の中で、何の見返りも求めずにただ手を差し伸べてきた」ことに対して驚きました。

もしかしたら、ポツンと座っている自分の姿を見て何か感じて声をかけてくれたのかもしれませんが、そもそもそんな風に知らない人に手を差し伸べる事なんてそうそう出来るもんじゃない。

それが出来ちゃう人とこんなタイミングで出会えたのはきっと何か意味があるのかも?と思い、そこでほんの少しだけ前向きな気持ちを取り戻すことが出来ました。

そしてその後なんとなく新宿駅へ向かうと、どこかのお店でガッツリ飲まされて瀕死状態のお姉さんが一人、寒さでブルブル震えていたので、さっきもらったホッカイロを袋から出して温めて渡してあげました。

あの時のお姉さんの「ありがとうございます」はマジで声になってなかったですね(笑)

その後無事帰れただろうか?

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自分はホッカイロをお姉さんに渡したあと「とりあえず静岡に向かって歩いてみるか」と思い、新宿から歩き始めました。

夜通し歩き続けるのは自衛隊の演習のおかげで慣れていたので、全然余裕でした。

どれくらいの時間から歩き始めたのかは全然覚えてないんだけど、朝には横浜市の青葉台駅あたりまで来ていました。

そこでふと「今持ってる時計とかネックレスとか売ったらいくらかお金になるか?」と考えて、駅近くの買取のお店に開店と同時くらいに入りました。

持っていたモノで言ったら良くても合計で「1500〜2000円」の値段が付けば良いくらいだなーという感じのモノだったんですが、なんとそこで付けてくれた金額は「6000円」でした。

自分もリサイクルの仕事をしていたので分かるんですが、こんな金額で買ってもらえるようなモノではないんですよ。

「え?こんな金額付けてくれるんですか!?」って思わず言っちゃいましたよね。

そしたら「全然これくらいなら出せますよ!」って言ってくれたんです。
このお店のお兄さんも絶対何かを察したに違いないと思いましたね。

そんな金額で買い取っちゃったら、きっと赤字だっただろうに。

ホッカイロのお姉さん」と「買取屋さんのお兄さん」、何かしら察して手を差し伸べてくれたこの二人がいなかったら、間違いなく自分は今生きて、こんな記事を書いていなかったと思う。

今絶対街ですれ違っても分からないと思うけど、この二人には感謝してもしきれない。

本当にありがとう。

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「再起〜現在」〜生い立ち編その4〜

ホッカイロのお姉さん」と「買取屋さんのお兄さん」のおかげで命を拾われた自分は、買取金額の6000円を使って静岡に向かいました。

まずは小学生の時以来、行っていなかったおじいちゃんの家へ。

久しぶりに家に入ると、おじいちゃんと見知らぬ女の人が一緒にいました。
その女の人はおじいちゃんが行きつけの銭湯で引っ掛けてきた人だそうで、今は一緒に住んでるんだとか。

絶対彼女だろそれ(笑)
体調悪いどころかめちゃくちゃ元気じゃねぇーか(笑)

そんなこんなで、まずは仕事を探さないといけないと思い求人誌を見る。

次にやる仕事は「自分が過去に人にしてあげたことで、喜んでもらったこと」にしようと思っていて、そこで見つけたのが「セラピスト募集」という求人記事でした。

当時はセラピストっていう言葉の意味も全然分からなかったんだけど、人の身体をマッサージして喜んでもらえたという実績(?)はあったので迷わず応募しました。

そこで研修を受け、無事デビュー。

それからの仕事は順調だったんですが、おじいちゃんが何やらワーワー言っている。

何かと思ったら「俺が持ってた金の指輪が無くなった。お前知らないか?」とのこと。

そんなものがあったことすら知らないし、知ってても持ち出さないでしょ。

てな感じで何日か後に、おじいちゃんから「お前、ばあさんの所に住め」と言われ、おばあちゃんの家に引っ越すことに。

後からおばあちゃんから聞かされた話で、おじいちゃんから「アイツは施設から出てきたやつだから何するか分からんぞ。気を付けろよ。」って言われたらしい。

やっぱ疑ってたんかい。
もっと怪しい奴があんたの隣にいるだろうに(笑)

もうね、身内からそういう事言われようが何されようが、その頃からもうビクともしなくなったよね。

あー、コイツもか」くらいにしか思わなくなった。

ちなみにおばあちゃんも、どこで捕まえてきたか分からない男と一緒に住んでて、その男と共謀して自分からお金をふんだくろうとしてきた。

すでに払っていた家賃を「もらってない」って言ってもう一回払わせようとしてたんだよね。

自分もおばあちゃんも、家賃のやりとりをした事を忘れないように毎回その場で帳簿を付けていたんだからすぐバレるでしょうよ。
下手くそか(笑)

そんな感じで、あっという間に住む家が無くなり、約1ヶ月ほどネカフェ生活をしました。

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それからは一旦北海道に戻り、沖縄から派遣社員として働きに来てた人と仲良くなって、その人が帰るタイミングで一緒に沖縄に移り住んで、色々とやりながら5年ほど生活しました。

沖縄ではセラピストの仕事をしたり、IT系の仕事をしたり、ビストロでシェフもやりました。

あと、自分でファッションブランドを立ち上げたのもこの頃だったなー。

First Cry

↑これは沖縄にいた時にやってたインストバンド「SAI」のレコーディング音源。

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↑これはライブの動画。

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↑これは自分が作ったブランドのパーカー。
写真は友達が着て撮ったのを送ってくれたやつ。

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↑これらは全部、去年家で作ったやつ。
今でもこうやって人に作ってあげると「美味しい」って喜んでもらえるから本当に嬉しくて、全然関係ない仕事をしてる今でも毎日作ってます。

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↑このお店で働いてました。
すぐ目の前が海で、サンセットがすごく綺麗な場所でした。

このお店は2018年の7月に閉店になってしまい、思い切って東京に引っ越すことにして、今に至るって感じです。

「だから僕は側にいる」〜今伝えたいこと〜

なんかずーっと自分の生い立ちをダラダラ語ってしまった感しかないんですが、ここまで読んでくれた人マジでありがとう。

小学校時代から現在まで主要な出来事を書いていきましたが、読んで頂いて分かる通り「何度人に裏切られようとも、何度傷付けられようともちゃんと復活」してきました。

お金を奪われて夢を諦めざるを得ない状況にさせられたり、あらゆる人に「存在を否定」されたり、ボコボコに殴られたり、給料未払いで生活を脅かされたり。

挙句には自殺未遂もしましたよ。
そりゃ「人が嫌いで、信用なんか出来ない」ってなるでしょ?

でも、それでもちゃんと復活できたのは「助けてくれる人もいたから」。

歌舞伎町にいた「ホッカイロのお姉さん」や「買取のお兄さん」はもちろん、今回ここに書ききれないくらいの人達に「命を救われてる」。

だからね、今度は色々と痛みを知った自分が「何かに悩み苦しんでる」「何となく生きづらいと感じている」人たちの力になれたらなーなんて思ってます。

自分もそうだから分かるんだけど、大体そういう人って「一人で考え過ぎちゃう」んだよね。

自分で何とかしようとついつい「頑張っちゃう」。

でもね、もうそうなったら頑張る事を辞めても良いと思う。
だって一人でもがいてるのって辛いでしょ?

それでも頑張りたいならそれでも良い。
けどその時は一緒に並走させてもらうね。

結構体力には自信あるんよ。
だから頑張りたい時はいつでも呼んで。

あなたが「たった1ミリでも生きやすくなる」ように。

ここまで読んでくれて本当にありがとうございました。

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